遺伝子操作と〈生の質〉の個体モデル

霜田 求
(大阪大学大学院医学系研究科助教授、医の倫理学)

 

はじめに

 生物医学や遺伝子工学など生命科学の研究成果が医療の分野に浸透するにつれて、ゲノム、DNA、遺伝子のレヴェルで生命への介入技術が急速に進展してきた。そうした中で、生命は「与えられるもの」「かけがえなきもの」から、選別、改変(修復/増強)、設計、作製といった操作を行う対象へと変容しつつある。他者の存在に向かう操作という行為は、「優良/劣悪」、「正常/異常」など、介入する主体自身の価値評価をも明るみに出すと同時に、個々の行為に関して法による規制や政策決定が要請されたり、人々のニーズに応じるビジネスとして市場が形成されたりするなど、その社会的側面も浮上してきた。こうした事態に直面して、われわれは、生命を営むことの〈意味〉あるいは生命や生活の〈質〉についてどのように考えればよいのだろうか。

 たしかに、ここで問題となる〈生の質(quality of life)〉は、日常医療や終末期医療でその向上(または低下の防止)が図られる患者の「QOL=生活の質」とは次元がまったく異なるように見えるかもしれない。しかしながら、操作という他者への関わり方においても、個人の身体および精神の状態や改善対象として尺度が必要であることなど、〈質〉の評価という点では患者との関係と共通する側面がある。さらに、人が自らの生を生きること、人が他者と関わること、人が人とともに生きる枠組み(社会)を作ることなど、〈生きること〉の異なる位相が折り重なり合いながら、〈生の意味〉を形づくっているということでは、両者には本質的な違いは認められない。

 このことを踏まえ、本稿では、生命への介入が投げかける倫理的・社会的な諸問題を「遺伝子操作(genetic manipulation)」という枠組みのもとで検討を加え、〈生の質〉について様々な角度から考察を試みてみたい。

1.遺伝子操作と障害――ある論争を手がかりにして

 英国で発行されている『医療倫理ジャーナル』誌を舞台に、遺伝子医療(診断、検査、カウンセリング、治療、増強)の倫理的・社会的側面に焦点を当てたいくつかの論稿が掲載された [1]意欲的な労作の並ぶ中、とくに興味深いのはJ・ハリス(John Harris)とSM・レインダール(Solveig Magnus Reindal)の間でかわされたやり取りである。遺伝子への操作的介入(治療/増強)と障害および優生学との関連をめぐる一連の論争の軸となるこのやり取りから、いくつかの問題点を浮かび上がらせてみよう。

1)「遺伝子操作は障害者差別か」――J・ハリスによる問題提起

 論争の発端は、『バイオエシックス』誌(1993年)に掲載された、英国マンチェスター大学の著名な生命倫理学者ハリスによる「遺伝子治療は優生学の一形態か?」と題された論稿(Harris 1993)であった [2]。ハリスはまず、遺伝子治療を優生学と結びつけて批判する見解に対して次のように反論する。優生学を「優良な子孫を産み出すのにふさわしい」知識や技術という意味で解するなら、遺伝子治療が優生学的であるとしても何ら問題はないし、「遺伝的弱者(=遺伝病者または保因者)に子を産ませない」という国家による政策と解するなら、遺伝子治療はそうしたものとは無関係である。何れにせよ両者を結びつける議論には説得力はない。むしろこの問題との関連で問われるべきなのは、①遺伝子の異常ないし欠陥を除去または修復する(=「機能異常を治す」)ことと通常の状態を改善または強化する(=「機能を増強する」)ことの間に、道徳的に有意な違いがあるのか、②医学的な技術としての遺伝子治療に、他の技術とは異なる何か特別に道徳的な問題が含まれているのか、ということである。(Harris 1993:178-9

 ハリスによると、我が子に「障害のないこと」「優良=五体満足であること」を親が望むのは当然だし、障害のある子を受精卵や胚の段階で事前に回避したり治療しようとする人がいても、何ら非難されるべきことではない。「賢明で良識ある人たち」であれば、誰もが「障害は何か能力を奪うこと(disabling)であり、それゆえ望ましくないことである」という見解を受け入れているはずだ。ハリスのこのような認識を支えるのは、「障害(disability)とは、間違いなくわれわれがそうでありたくないという強い合理的な選好(a strong rational preference)を持っている、ある身体的ないし精神的な状態であり、より重要なのは、それはある意味で〈害された状態(a harmed condition)〉だということである」という「障害」の定義である。(Harris 1993:179-80) 

 このような前提に立てば、上記①の問いに対しても明快な答えを出すことができる。遺伝子の異常による疾患を治療すること(=機能異常を治す)は「責務」であるのに対し、通常の状態であるにもかかわらずさらに何かを付加したり強化したりする(=機能を増強する)のは、場合によっては「許容可能」であるが「責務」とは言えない、二つの介入様式に異なる対応を求めるこうした意見に対して、ハリスは次のような例を挙げて反論する。たとえばエイズや肝炎の抗体を作る遺伝子の導入や老化を遅らせて健康に長生きできるための遺伝子治療といった「増強」は、もし技術的に可能となった場合には、それを行うことはたんに許容可能であるのにとどまらず、むしろ責務と言うべきではないか。「障害」を事前に回避したり除去・修復が可能であるのにそれをしないのは、その人に「故意に害を与える」ことに他ならず、同じことは予防可能な措置があるのにそれをしないということにも当てはまる。(Harris 1993:181[3]

 そうした介入がより効率的に行われるのは、すでに細胞や組織が分化してしまった段階での体細胞への遺伝子治療よりもむしろ、未分化な段階で個体全体への効果が見込める生殖細胞系列への遺伝子治療である。後者に対しては、それが子孫にも影響を及ぼすことで、予測不可能な未知の危険性がある、何らかの質を持った人間の生産など特定の意図による「人間改造」に道を拓く、といった反対論が強い。しかしハリスによると、このような実証的根拠の乏しい憶測による反対論は、子の〈質〉という親(カップル)にとっての明白な利益を優先する肯定論によってくつがえされる。

 次に、遺伝子操作と障害者差別の関係について、ハリスは両者を結びつける議論をはっきりと拒絶する。障害の発生を事前に防止することは、現に存在する障害を除去したり修復したりする治療的介入と同様、技術的に可能である場合にそれを行うのは医療者の責務である。そのことは、胎児における選択的中絶や重い障害を持って生まれてきた新生児の安楽死だけでなく、着床前での遺伝子操作にも当てはまる。遺伝子レヴェルでの「異常」や「欠陥」を除去したり修復することは、それが当事者(親)の自発的意思によるものである限り、「障害者の人格の価値を貶める」といった批判はあたらないし、障害者差別とは無関係である。そもそもハリス自身、「すべての人は、障害があるとないとに関わりなく同じ道徳的地位(moral status)を共有している」という見解を擁護する立場にあり、障害者差別の意図は微塵もない。(Harris 1993:182

 こうした立場からハリスは、「重要なのは、遺伝的弱者は子を産むことを断念すべきだということではなく、その遺伝子組成により深刻な害が与えられるかもしれない子を産むことは何人といえども断念すべきだ、ということである」(Harris 1993:183)と訴える。旧来の優生政策が「遺伝的弱者」への強制的な断種という“粗野”なやり方をしていたのに対し、遺伝子操作の技術によって、「障害因子の出現防止」というより“精度の高い”優生学的理念の実現手段が得られたわけである。この道徳的に正当化できる優生学 [4] は、「当事者の自発的意思」に基づくという点で旧優生学とは決定的に異なるのであり、障害者差別と結びつけるのは誤りだ、というのがハリスの主張の核心をなすと言えるだろう。

2)「障害は社会的な構築物だ」――S・M・レインダールによる批判

 「障害、遺伝子治療、優生学ジョン・ハリスへの挑戦」(Reindal 2000)においてレインダールがその批判の矛先を向けるのは、ハリスが前提する〈障害=望ましくない生の質〉という図式である。障害児教育の研究者として、レインダールは障害学(disability studies)の成果を踏まえつつ、障害概念の位相差、とりわけその社会的文化的な側面に注意を促しながら、ハリスの障害概念の問題性を浮き上がらせようとする。

 レインダールはまず、障害ある生の選別というレヴェル、具体的には親の希望と医師の判断という位相に焦点を合わせる。体外受精および着床前診断によって胚を選別する三つの事例 [5] を挙げて、「機能形態損傷(impairment)」という〈質〉を選び取る/回避することの道徳的正当性を問いとして提起する。ハリスからすると、産まれてくる子の遺伝子組成が当人に「深刻な害を与える」ことがあらかじめ分かっている場合にその子を産むことは、たとえ親の希望であれ道徳的に正当化できないが、逆に医師の側が親の希望をくつがえして「正常な」胚を戻したとしてもそれは間違っていない。しかしむしろハリスの「障害」概念は、いかなる状況においても「人がそうでありたくない」、「可能な限り除去・修復すべき」「望ましくない」状態という定義から明らかなように、子の〈質〉それ自体という位相にその核心がある。このことは「そもそも障害とは何か」という基本的な問いと深く関わっており、レインダールが「障害」概念そのものに論点を移すのも必然であった。

 レインダールによると、ハリスは「障害を個人の問題、主体内部の状態と見なす」という点で、決定的に間違っている。これは現代の障害学では「医学‐医療モデル(a medical model)」ないし「個人モデル(an individual model)」と呼ばれ、そこでは「機能形態損傷を負うこと(having an impairment)」と「障害を抱えること(being disabled)」とが等置され、「障害が生物学的決定論や個人の悲劇の産物と見なされている」。しかし、最近の研究によると、成人男女の約4割は長期にわたる疾病や障害を抱えており、欧州全体で約5000万人、世界全体でおよそ5億人がそうした状態にある。このことからしても、障害をたんに医療的処置(治癒およびリハビリテーション)の対象に限定することは困難であり、「障害は、当人の機能形態損傷による個人的に制限された状態であるよりもむしろ、社会政治的な構築物(sociopolitical construction)であり、組織や文化の産物である」。(Reindal 2000:92

 障害の「社会モデル(a social model)」と呼ばれるこの観点からすると、個人の身体的および精神的な機能形態損傷状態は、障害という〈生の質〉を形づくる一つの要因にすぎない。障害に関わる社会的な位相、すなわち「社会的な障壁、規範、価値観」といったものも、その不可欠な構成要因なのである。「障害とは〇〇である」と客観的(=医学的)に定義することができるという発想そのものが障害者に対する差別を形づくるものであり、優生学的政策を支えてきたし、現在も支えているのではないか。そしてそこでは、機能形態損傷を負いながら生きている人たちの〈声〉という位相、障害当事者自身の経験や見解という位相もまた容易に切り捨てられてしまうのではないか。

 このようなレインダールの立論が示唆しているのは、遺伝子操作をめぐる議論が医学‐医療モデルないし個人モデルに依拠している限り、「障害」の多様な位相に目を向ける回路は閉ざされ、それが「機能形態損傷→障害」といった単純な因果関係に一元化されてしまうという洞察である。そこには、「当事者(親)の自発的意思によるのだから優生学や差別という非難は的はずれだ」という主張に対する批判も含意されている。

3)「障害とは身体的および精神的に〈害された状態〉である」―J・ハリスの反論

 以上のようなレインダールの批判に対し、ハリスは「一貫した障害の社会的概念など存在するのか」(Harris 2000)において、自説をより先鋭化する方向で反論を加える。「当の個人への害悪を形づくる身体的および精神的な状態」と「その状態が当の個人に不利益をもたらす社会的条件」とは峻別されねばならず、したがって社会モデルが掲げる「社会的要因に基づく障害の概念」なるものは認められない、というのがその骨子をなす。

 レインダールは「障害の社会的次元がいったん解決されてしまえば、〈障害をもたらす〉深刻な特徴は何も残らない」と主張するが、そこでは障害の「身体的および精神的次元」の固有な意義が見落とされている。そしてハリスは、「もし障害がもっぱら社会的状態により同定されるのなら、たとえば社会的排除や差別、人種や性による差別の犠牲者はすべて障害を持つものと見なされることになる」ではないか、と切り返す。(Harris 2000:95)ハリスにとって、「障害」という概念の核心に位置するのは身体および精神が害された状態なのであり、これは社会がどのようなものであれ、それ自体として「障害」という意味を担う。(これをハリスは「障害の〈害された状態〉モデル」と呼ぶ。Harris 2000:99

 生物学的・社会的な属性(人種、性、民族、宗教)による差別と身体的ないし精神的な状態による差別とは、その是正または解消の目的(意図)に関して重大な差異がある。前者では属性を「治す」ことは意図されず、もっぱら社会的な烙印(およびそれによる差別や排除による不利益)をなくすことが求められる。これに対し後者は、「合理的な人間であればそれがない方がよいと考えるであろう状態」である「障害」そのものを(治療により)なくすことが意図される。(Harris 2000:98

 レインダールは「身体的ないし精神的に害された状態」=「機能形態損傷」である「障害」を、社会的な次元の問題である「不利益(disadvantage)」と区別しない。当の個人にとっての直接的な「害悪」である前者と、それによって引き起こされる社会的な排除や差別や人々の意識といった後者とは、本質的に次元の異なる問題である。「機能形態損傷」は「社会的条件がいかなるものであれ」それ自体として「障害」である。なぜなら、そのことによって本来(それがなければ)可能であるはずの「重要な選択肢や経験」が奪われてしまうからである。したがって、レインダールが挙げている、「障害」があることが事前に分かっている子をあえて産むカップルの行為も認められない。「性と生殖の自由ないし自律」は支持されねばならないものの、「産まれてくる子が深刻な障害を持つと知りながらそうした子を作る選択を故意に行うことは、道徳的に問題があり、しばしば道徳的に間違っている」からである。そうした行為は、事前に回避できるにもかかわらず回避しないか、あるいは治療法があるのにそれをしないかであるが、何れにせよ当の子に「害悪を与える」ことだからである。(Harris 2000:96-8

 個人レヴェルの問題と社会レヴェルの問題を混同してはならない。出生前診断による選択的中絶や着床前遺伝子診断による胚の選別が「障害者への差別だ/につながる」という抗議に対して、障害発生の事前防止と現に生きている障害者の権利擁護(差別の抑止)や福祉向上とは両立可能だ、という反論が提出されることがある。ハリスもこのいわば二重基準(ダブル・スタンダード)論に与する立場から、〈障害による社会的な排除や差別をなくすべきだ〉という問題と〈障害を持つ子の出生を事前に防止したりそれを治療すること〉とは別の問題だと考える。「現存する障害者にとって何が有用かという問い」と「障害を構成するのは何か、そして将来障害の発生を最小化することの倫理は何かという問い」とは区別されねばならないのである。(Harris 2000:98-9

 2.問題点の整理――何が問われるべきか

 以上で見てきたハリスとレインダールの論争に関連していくつかの論稿が寄せられており、それらの中で提示された論点も含めて、遺伝子操作と障害・優生学・差別との関係をめぐって問われるべき問題点を簡単に整理してみたい [6]

1)遺伝子操作と障害

(ア)医学‐医療モデルと社会モデル…上述の論争でもっとも中心的な争点となったのが、この二つのモデルをめぐる問題である。ここでは、医学‐医療モデルに対する社会モデルからの批判を受けて、逆に前者から後者に提示される問いを二つ挙げておく。機能形態損傷を抱える人が社会的に不利益を被るような制度上の仕組みが改善され、社会的な差別や偏見も厳しく抑止されたとしても、その当人自身が自らの身体的‐精神的な状態から逃れたいと願うとすれば、「障害」はやはり当の個人の私的な問題なのではないか。機能形態損傷になる可能性がある遺伝子「異常」を事前に除去ないし修復できる技術があり、当の親がその施行を望んだとき、その選択を禁止できる根拠を社会は示せるのか。

(イ)親の選択と子の利益…遺伝子操作による子の〈質〉の選択が親の「生殖の自律」として仮に容認可能だとしても、生まれてくる子自身の利益との関連で、その選択の範囲や程度が問題となりうる。一方で、レインダールが挙げているような、親の側の希望に従って選択的に機能形態損傷を持つ子を産むというケースについて、「親の都合によって子の経験を狭めることであり子の利益に反するので、道徳的に間違っている」という批判は有効なのか。あるいは、「高い知能」や「すぐれた運動能力」といった「優良な質」を持った子を産む親の選択に対して、「親の欲望充足の手段として子を設計(デザイン)することであり、正当化できない」と非難することができるのか。そもそも、親による〈質〉の選択が子のアイデンティティや心理面で深刻な影響をもたらす可能性がある以上、そうした親の選択には制限が必要だ、ということになるのだろうか。

2)遺伝子操作と優生学・差別

(ア)優生学の理念と手法…優生学とは国家による生殖のコントロールとして行われる、親となる者に対する強制的な処置(断種など)および産まれてくる子の〈質〉の管理(消極的/積極的な介入)であって、親の自発的な選択による遺伝子操作を優生学として非難するのは的はずれだし、仮に優生学であっても間違いとは言えない、ハリスが示唆したこのような主張から、次のような問いが浮かび上がってくる。優生学が「人類の遺伝的素質の改善という目的のもとに、劣悪な遺伝形質を淘汰し優良な遺伝形質を拡大すること」であるとしたら、その理念のどこに問題があるのか。遺伝子操作による〈質〉への介入が、国家による政策としてではなく当事者の自発的意思で個別的に行われるとしたら、それを社会は禁止または規制することができるのか。

(イ)差別…ここでは、遺伝子操作とりわけ着床前遺伝子診断や生殖細胞系列での遺伝子増強は「障害者への差別である(につながる/を助長する)」という指摘の当否、あるいは、遺伝子操作を推し進めることと現存する障害者の尊重・支援とは何ら矛盾しない(両立可能)と言えるのかどうかが問題となる。具体的には次のような問いである。重篤な遺伝性疾患の保因者カップルが、体外受精による着床前遺伝子診断の結果「異常」のない胚を着床させることは、「障害者の出生を事前に防止する」ことであり「障害者はこの世に存在しない方がいい」という障害者差別の思想なのか、それともたんなる個人的な事情による価値選択にすぎないのか。障害を持つ人たちが、遺伝子操作による胚の選別(とくに「異常」胚の廃棄)は自分たちの存在を否定する所行であって断じて容認できないと訴えるとき、そのことを社会はどのように受け止めるのか。

3.個体モデルの批判的検討

 次に、これらの互いに交錯し合う多様な問いについて(そのすべてではないが)明確なスタンスを表明している、ハリスに代表される立場を、「生の質の個体モデル(the individual model of quality of life)」として再構成した上で、そこで提示される見解の批判的検討を試みる。「個体モデル」とするのは、当の存在がたんに医学・医療の対象(=患者)であるにとどまらず、受精卵・胚から胎児、新生児を含めた生物学的なヒト個体を問題にするからである。また「生の質」とするのは「障害」とともに遺伝子操作により目論まれる「高い知能」や「優れた運動能力」といった〈質〉をも射程に入れるためである。

1)アトミズムと現状肯定思考

 個体モデルにおいて個体の〈生の質〉を決定する最も重要な指標は、その「道徳的地位」である。「道徳的」というのは、その存在の「人格(person)」、「自律(autonomy)」、「利害ないし福祉(interest or wellfare)」といった評価尺度に応じた配慮を要求するという意味で理解することができる。まず何よりも、当の存在が「人格」であるかないかが大きな分かれ目となる。ハリスによると、「人格とは自分自身の生を価値づける(value)ことのできる存在である」。そしてある人格を尊重するということのうちには、当の「人格の福祉への配慮」と「人格の望み(wish)の尊重」という二つの次元が含まれる。前者において当の存在の生が「よくある」ことが求められ、後者の「望み」は、自らの生の「よくある/よくない」ことを選択/忌避できるということだ。(Harris 1985:192-3)「価値づけ」という、自らの生の状況判断や「よさ/よくなさ」の評価を行う能力それは「人格(パーソン)論」が人格の要件と見なす自己意識や理性能力を前提条件とするを持つか否か、このことが個体の〈生の質〉を二分する第一の基準となる。

 ハリスが論及する「自律」は、どのような子を産むのかについての「選択の自由」をその内実とする「生殖の自律」であった。また、「当人の決定が自分自身の決定であって、他者によって制限されることのない」こと、そして欲望や行為の「コントロール能力」、「理性能力」、選択のための「情報」が欠落していないことも、自律性の条件であった。(Harris 1985:196-200)ここに〈質〉の評価の第二のレヴェルが設定される。それは、当人の欲望や理性によって「価値ある質」として選び取られる生の在り方と、「価値なき質」として排除または消去されるそれとの間の境界線と言ってもよい。それゆえ、遺伝子への介入は、当事者の自発的意思に基づいて行われる限り、体細胞であれ生殖細胞系列であれ、消極的介入であれ積極的介入であれ、当人の価値づけによるものとして是認される。

 「障害」という〈質〉も、当人自身の価値づけによって「そこから抜け出したい状態」という評価が与えられるものであり、「合理的な人間であればだれもがそうでないことを選好する」と考えるハリスにとって、たんに主観的に価値づけられたものであるにとどまらず、社会全体にとっても〈望ましくない質〉である。しかも、予防可能な害悪や苦しみを事前に取り除くことは「強い道徳的責務」であり、その「強さ」は「予防可能な害悪の深刻さ」「それを予防するのに要するコスト」「発生の起こりやすさ」により異なる。「障害」をもたらす〈質〉は、こうした尺度によって客観的に評価可能なものと見なされるのである。(Harris 1998:31

 他方、当の存在が価値づける能力や自律能力がないと見なされるとき、その「価値づけできない」「自律能力がない」という判断を当の存在に対して行うのは、価値づける能力や自律能力を持ったその存在の他者である。胚や胎児、あるいは重度意識障害患者の〈生の質〉は、当の個体の外部から、例えば「生きるに値しない」「医療上有用だ」「当人の利益に反する」といった評価が与えられる。そうした価値評価も、多くの人がそれを受容するようになったり、制度的な保障(法律による容認)を得ることで、社会的に承認されたものになると同時に、医学的な根拠という客観的裏づけを与えられる。

 このように、個体モデルでは、まず「価値づける能力」「自律能力」の有無という形で境界線が引かれた上で、一方では当人自身の「価値づけ」によって「優良/劣悪」「望ましい/望ましくない」「生きるに値する/値しない」といった〈質〉の評価が下される。他方、自己による「価値づけ」能力を欠いた存在は、もっぱら価値づけられるものとして、したがってまた操作の対象として位置づけられる。何れの場合も、価値づけられた〈質〉は、個体に内属するものであると同時に社会的かつ客観的な規定性でもある。こうした考え方は、〈質〉へ介入する技術それ自身は(それに対するニーズがある以上)好ましいものであり、その技術の使い方(国家による強制/当事者の自発的選択)如何で善い/悪い実践となる、といった理解に行き着く。優生学の理念それ自体は、人々がそれを望ましいと考える以上正しいものであり、それを実行する方法に善い/悪いの違いがあるだけだというハリスの見解も、こうした理解に基づくと言ってよい。 

 社会モデルを掲げる障害学が主張するように、医学‐医療モデルによる「ノーマライゼイション」が、「支配的な(dominant)社会集団の選好や偏見を正当とし、さらにそれを押しつける」(Silvers 1998:74)という傾向を強く持っていることは否定できない。そのことが、社会に広く根を張っている〈健常/障害〉という二項図式的な価値意識をより強化することにつながるという機制にも目を向ける必要があるだろう。何らかの機能形態損傷を負った生を「生きるに値する/値しない」という価値評価の対象とすることができるという発想そのものが、「定義づける権力」(Reindal 2000:93)を支えており、システムとしての優生学や差別の基軸をなすことは、けっして過小評価してはならない。ただしそれは、もはや国家や政府という権力組織が政策として個人に強制するというものではない。むしろ、当事者が自らの価値観に基づいて〈質〉を選ぶという形がとられる。

 着床前に遺伝子レヴェルの「異常」を発見してその個体を廃棄したり、「異常」因子を除去ないし治療するという場合も、「望ましい質」を持った子をつくるためにそれにふさわしい遺伝子を導入する場合も、「当事者の自由な選択」がその出発点に据えられる。とりわけ後者の場合、社会の多数の人が「優良」と見なす属性、例えば「高い知能」や「すぐれた運動能力」を持った子をつくる自由が、「レッセフェール優生学」「消費者優生学」とも言われる「新優生学」(King 1999)として積極的に認められることになる。

 市場メカニズムを支える欲望主体としての個人は、同時に〈優良/健常/障害〉の図式に枠づけられた社会の価値観を肯定的に受け入れる者でもある。そうした個人を中心的な担い手とする個体モデルにおいては、「障害」を抱えて生きることも「優良」な質を選び取ることも、当事者の私的な問題にすぎない。

2)個人と社会の二分法

 ハリスによると、「機能形態損傷」を負って生きることは、社会的条件がいかなるものであれ、それ自体として当人に対する「害悪」を形づくっており、それは「だれもが望ましくない」と見なす事態すなわち「障害」である。しかもそれに制度的差別や人々の差別意識といった社会的要因が加わって当人(およびその家族)に「不利益」をもたらすこともある。それゆえ、たとえ社会的条件を改善して不利益の原因を除去しても、それは障害の社会的次元が解決されたにすぎず、依然としてその人は「障害者」であり続ける。

 このような見方の根底には、個人と社会を二項対立的に捉える思考法があると言ってよい。すでに確認したように、「個人の生殖の自律」と「国家による公的規制」を二元的に対置するこの思考法にとって、障害という〈質〉は個人の内部で完結した、社会的な諸関係とは切り離されたものであり、たとえ社会的条件が「解決」されても、個人の身体的および精神的な状態が「障害をもたらす」ものであることに変わりはない。しかし、機能形態損傷はたしかにしばしば当人にとって「不便」ではあるものの、それが「不利益」になるのは一定の社会的条件による。社会モデルが主張するように、「障害」が社会的・政治的・文化的な構築物という側面を有することは、個体モデルでも承認することはできるだろう。問題は、そうした側面はあくまで個体の外部を形づくるものであって、個体に内属する〈質〉はそれとは独立に評価可能なものなのか、という点である。

 個体の〈生の質〉をその担い手である個人のうちで完結したものと捉える限り、「障害はない方がよい」「障害の発生を事前に予防できるのならそうすべきだ」といった価値観そのものが、「障害者が生きることの困難さ」を強める〈力〉として作用することは視野に入ってこない。そうした観点から想定される社会的条件の「解決」は、せめぎ合いぶつかり合う多様な〈質〉を持った生のダイナミズムを捨象した、外面的・表層的なものにとどまらざるをえない。個人が「障害」とともに生きるということは、つねに同時に家族や地域、共同体や国家の中で働く規範や価値の〈力〉との相関を生きることに他ならない。

 たしかに、「出生前診断や着床前診断による障害の発生防止が、現存する障害者への差別であり、それを助長するのではないか」という懸念を裏づける実証的な根拠を挙げることは難しいかもしれない。しかし、それは差別という事象を問題化する際、とくに差別意識を含む社会的価値観を取り扱う際のいわば原理的困難さとも言うべきものであろう。「障害はない方がいい」という価値観が、現に障害を持って生きている人たちに「冷たい視線」として突き刺さっているのではないか、統計に現れない障害者の「生きにくさ」(教育や雇用における選別・排除、人々の差別意識・無関心)を支えているのではないか、こうした疑念は、たとえ「障害者の出生防止処置」と「障害者の生きにくさ」との間に因果関係が存在するとは言えないとしても、簡単に切り捨ててしまうことはできないはずだ。

 個体内部に閉じこめられた機能形態損傷と社会的条件による不利益とに分断された「障害」概念に固執するハリスには、障害と共に生きる人たちの〈苦しみの声〉が届くことはない。障害というきわめて多様な、そして幾重にも折り重なる生の位相と向き合う姿勢がすっぽり抜け落ちているのである。「もし可能なら治したい」、「健常者と同じ経験をしてみたい」、「だからといって今の自分を否定するのではない」、「世間の差別的視線には屈しない」、「今の自分の生はけっして不幸ではない」といった複雑に交錯する様々な思いを、非障害者の側はどのように受け止めるのか。こうした問いもまた、個体モデルにかかると「人それぞれの価値観」といったたんなる私的問題に矮小化されてしまう。

 きわめて重篤な遺伝性の疾患が着床前遺伝子診断で見つかった場合、カップルがその受精卵を子宮に戻さないという選択をしたとき、それは「当事者の選択の自由として認められるべきだ」と見なすのが、個体モデルの基本的スタンスである。この立場からすると、「そうした選択を障害者差別だ(につながる)からという理由で社会が禁止することは、個人の選択権の侵害だ」ということになる。たしかに、「個人の選択の自由」を原則として受け入れる限り、そうした選択そのものを法律によって全面的に禁止することはできないだろう。しかしだからといって、「当事者の私的な選択であるから第三者や社会が介入すべきではない」ということになるだろうか。他者の選択の自由を尊重するという、一見するとリベラルなこの姿勢は、「他人が障害を持って生きようが自分とは無関係だ」という無関心の態度として、社会の差別構造を補完するものと言えないだろうか。

 種々の操作が当事者の自由な選択により行われる場合も、それが社会のなかでどのような〈力〉として働いているのか、とくに「不利益」を余儀なくされている人たちに否定的に作用していないかどうかを慎重に見極めることが要請される。そのためには、「当事者の自由な選択」そのものをたえず問題化しつづけることが必要となる。たとえ一定の条件のもとで許容されうるとしても、それがたんに当事者の私的な問題にとどまるのではなく、同時に社会の成員に対して不断に反省を迫る公共的な問題でもあるという認識が不可欠ではないだろうか。そこでは、いかなる「条件」を課すのか、それをどのようなプロセスで決めるのかも重要な問いとなる。それはけっしてたんなる技術的な問いと解されてはならない。人がどのように他者と関わり、相互の関わり合いを築いていくのかという〈倫理〉の問いと深く結びついているからである。最後にこの問題について考えてみたい。

4.他者への関わり/他者との関わり合い――コミュニケーション・モデルに向けて

 個体モデルによると、障害は「できればそうでありたくない、可能ならそこから抜け出したい」状態と評価されるが、そこから次のような自己と他者の関係が帰結する。それは、「できれば自分のことで手を煩わせたくない、面倒をかけたくない」、あるいは「自分の側の手を煩わされたくない、面倒をかけられたくない」という形での「他者への関わり/他者との関わり合い」である。そしてそれは、「できればこちらの思い通りであってもらいたい、可能ならそのように変えたい」という操作の対象として他者を眼差す姿勢につながっていく。逆に「できればそうでありたい、可能なら自分もそのようになりたい」という「優良な質」の評価の場合も、積極的な設計(デザイン)の対象として他者を眼差す方向を後押しすることになる。

 生命操作技術の進展により〈生の質〉を選択し改変できる可能性が拡大するにつれて、そこへと向かう欲望の力も増幅していく。それは一方で、他者の存在が自己の外部から驚きや違和感や喜びを与えるものであるという、その「意外さ」を限りなく切り縮めようとする。そして、すでに自らが抱いている〈優良/健常/障害〉に序列化された人間像に合わせて、コントロール可能な対象という枠に他者を囲い込もうとする [7]他方その力はまた、他者が自分とは異なった自己実現の可能性を秘めた存在であることを受け入れる、他者に向き合う際の「謙虚さ」を摩滅させていく。「もし知能を高めたり健康を改善したりするという目的が、社会におけるより一般的な健康教育を含めて、教育を通じて実現を目指されるものであるとしたら、こうした目的を遺伝子工学を通じて実現してはいけない理由があるだろうか」という論法(Harris 1992:142)に、そのことが見て取れる。教育と遺伝子操作を類比的に捉えるこの発想には、他者がその生において開かれていること、自らの生を展開する力を備えていることを尊重する姿勢は認められない [8]

 このような〈質〉を操作対象と見る個体モデルの他者理解に対しては、生命それ自体の実質的な価値とりわけ「生命の神聖性(sanctity of life)」に依拠する立場からの批判がある。胚の選別や研究から人工妊娠中絶を含めて、生命の〈質〉のみならずその活動への操作的介入を全面否定するこの立場は、たしかに首尾一貫してはいる。しかし、個体それ自身に固有の内在的価値(神聖性としての尊厳)を認めるという点で、この立場は個体モデルと同じ前提を共有している。またそこでは、〈生の質〉をめぐって当事者および社会が直面する難問、とりわけ許容可能な「条件」をどのように決めていくのかといった問いそのものが却下されてしまう。必要なのはむしろ、「当事者の自由な選択による〈質〉の操作」か「生命価値の絶対性」かという二分法を超え出る視角ではないだろうか。以下でその可能性を、「人が様々な位相の関係を生きるというその営みを離れて〈生の質〉は確定しえない」という観点から考えてみたい。

 〈生の質〉を織りなす関係は、人と人とが対面する個別的場面から組織・制度といった社会的場面に至る、多種多様なコミュニケーションの集積から成っている。「障害」という〈質〉や「優良な子」の〈質〉も、そうした〈生〉の営みを支えるコミュニケーションによって大きく左右される。遺伝子操作との関連でとくに重要なのは、受精卵・胚に介入する際の意思決定プロセスである。そこでは、操作(選別・設計)が技術的に可能であるという中で、どのような〈質〉を望む/望まないのか、〈質〉に介入する評価基準は何か、どういった社会生活が予想されるのかなどをめぐって、当事者たちの思いや価値観が否応なく露呈する。しかしそれらが「当事者の自由な意思」に回収されてしまう限り、他者とりわけ障害と共に生きる人々からの「問いかけ」や「訴えかけ」 [9] にさらされることはない。操作的介入が行われる当の現場で、そうした問いかけや訴えかけを聴き取り、これに応答すること、そして「ともに考える」機会を設定することが必要なのではないか。

 たとえ最終的な決定が当人の選択に委ねざるをえないとしても、そのようなコミュニケーション・プロセスを(場合によっては強制的に)介在させることが、自他の「関わり合い」の内実を規定する決定的な要因となりうる。言い換えると、他者を操作対象と見なすことにより、そうした介入を決定しコントロールする主体という自己理解をより一層強固にするのか、それともこのような回路を断ち切り、他者からの問いかけや訴えかけに応答し、それによって自らが揺さぶられ、変容しうる存在であることを自覚するに至るのか、この「関わり方」の違いが自己/他者の〈生の質〉を大きく左右するのである。

 こうした方向は、〈生の質〉を個人と社会との関係一般に定位する社会モデルとも異なるものであり、そのつどの具体的なコミュニケーションのうちに見定めるアプローチとして、〈生の質〉の「コミュニケーション・モデル」と呼ぶことができるだろう。そこでは、操作の手が加えられる受精卵や胚、「異常」が発見されてその生を断ち切られるかもしれない胎児や新生児、「障害」を抱える生や設計(デザイン)された生を生きる人、死なせることが検討される終末期患者、それぞれの存在者の〈生の質〉が、当の生を営む者を取り巻く様々な関係のあり方によって規定される。そしてその関係を形づくるのは、どのように眼差し/眼差されているのか、また(意思表示能力がある場合)どのような呼びかけ/応答がなされているのか、さらにはそうした存在者を社会は制度や政策の面でどのように処遇しているのかといった、重なり合うコミュニケーションである。このモデルについては機会を改めて詳しく論じることにし、ここでは輪郭を示すにとどめたい。

 

〈注〉

[1]  Journal of Medical Ethics, Vol.25, No.2, 1999; Vol.26, No.2, 2000.なお、目次および要旨については下記のウェブサイトで見ることができる。http://jme.bmjjournals.com/contents-by-date.0.shtml

[2]  この論稿では「遺伝子治療(gene therapy)」という語に、遺伝子の「異常(disorder)」ないし「欠陥(defect)」の除去や遺伝子導入による疾患の修復だけでなく、通常状態の機能改善・強化としての「遺伝子増強(genetic enhancement)」も含めており、それらとの関連で着床前遺伝子診断にも言及している。それゆえここでは、遺伝子への介入全般を指し示す「遺伝子操作」として論じる。 

[3]  「知性の改善」といった「装飾的(cosmetic)」介入についても、ハリスは基本的には正当化できると考える。(cf. Harris 1993:185) 

[4]   当事者の自発的意思(選択)に基づくこうした優生学は、「新優生学(the new eugenics)」と呼ばれる。後論でもこれに言及するが、立ち入った検討は別の機会に譲る。さしあたって参照した文献は以下のもの。Caplan 2000; King 1999; Paul 1998; 市野川 1999; 佐藤 1999; 立岩 1997; 松原 2000; 米本他 2000; 森岡 2001

[5]   三つの事例を簡単にまとめておく。(Reindal 2000:90
事例A:平均より身長が低い軟骨無形成症(achondroplasia)と診断されたカップルが、その身長に合わせて作り替えた自分たちの生活スタイル(家具、車など)に適合する、同じ軟骨無形成症の原因遺伝子を持つ子を産むために、着床前診断による胚選択をした上で、それを子宮に移植しようとするケース。
事例B:双方ともに先天性ろう(congenital deafness)であるカップルが、自分たちの子も手話によるコミュニケーションを行う方がよいと考え、体外受精による着床前診断で先天性ろうの遺伝子を持つ胚を選択し、子宮に移植しようとするケース。
事例C:1回目の体外受精の際に流産を経験し、最後の機会として2回目の体外受精を試みているカップルが、着床前診断ですべての胚が異常胚であると分かっていながら、あえてその子宮への移植を希望するケース。

[6]  cf. Draper/Chadwick 1999; Gillam 1999; Holtug 1999; Persson 1999; Newell 1999; Wikler 1999. なお、体細胞(somatic cell)と生殖細胞系列(germ line)、消極的介入と積極的介入といった、遺伝子操作の手法に関する問題も大切な論争点だが、ここでは注記にとどめる。

[7]  そこでは、子の存在が「神からの贈り物」であるよりもむしろ「両親の熱望、欲望、気まぐれを、部分的にであれ表現する、選ばれた生産物」となる。(King 1999:180

[8]  この点に関連して、レインダールが挙げている、機能形態損傷になる可能性のある胚をあえて選択するカップルの行為(注5)について簡単に触れておく。たしかにこの問題は、「個性」「差異」としての障害という捉え方、「ろう文化」など障害文化や障害コミュニティの評価、社会関係がいかなるものであっても変わることのない「この私の身体感覚の固有性」の位置づけ、といった障害学の重要なテーマと切り離して考えることはできない。しかし、そうした選択が自分たちの子を操作可能な対象として取り扱うという「他者への関わり方」であることは否定できないように思われる。以下の文献を参照、長瀬 1998、立岩 1998、石川/長瀬 1999、倉本/長瀬 2000

[9]  遺伝子研究が障害者に対して及ぼす影響に懸念を表明する障害者団体「障害者インターナショナル欧州」(Disabled Peoples International Europe)の文書から引用しておこう。「慈善や研究のための基金集めを正当化するために私たち障害者の否定的イメージを利用する社会の中で、私たちはどのようにして平等な市民として生きていけるのだろうか。これは結局のところ、私たち障害者を消去する必要があるということの証拠として障害者を利用することでしかない。私たちはたえずそうしたイメージによって無力化されているのだ。疾病や機能形態損傷を根絶するために遺伝子研究に数百万ドルを費やす一方で、尊厳ある生活や自立した生活を送りたいという私たちの要求に応じることを拒否する社会の中で、私たちはどのようにして尊厳ある生活を送ることができるのだろうか。」"Disabled People Speak on the New Genetics", http://www.dpieurope.org/htm/bioethics/dpsngfullreport.htm

〈文献〉

Caplan, A.L. 2000: What's morally wrong with eugenics?, in: P.R.Sloan(ed.), Controlling Our Destinies : Historical, Philosophical, Ethical, and Theological Perspectives on the Human Genome Project, Univ. of Notre Dame Pr.

Draper, H./Chadwick, R. 1999: Beware! Preimplantation genetic diagnosis may solve some old problems but it also raises new ones, Journal of Medical Ethics [=JME], Vol.25, No.2

Gillam, L. 1999: Prenatal diagnosis and discrimination against the disabled, JME, Vol.25,No.2

Harris, J. 1985: The Value of Life. An Introduction to Medical Ethics, Routledge

Harris, J. 1992: Wonderwoman and Superman. The Ethics of Human Biotechnology, Oxford UP.

Harris, J. 1993: Is gene therapy a form of eugenics?, Bioethics, Vol.7, No.2/3

Harris, J. 1998: Rights and reproductive choice, in: J. Harris and S. Holm(eds.), The Future of Human Reproduction, Clarendon Press

Harris, J. 2000: Is there a coherent social conception of disability?, JME, Vol.26, No.2

Holtug, N. 1999: Does justice require genetic enhancements?, JME , Vol.25, No.2

King, D.S. 1999: Preimplantation genetic diagnosis and the 'new' eugenics, JME, Vol.25,No.2

Newell, C. 1999: The social nature of disability, disease and genetics: a response to Gillam, Persson, Holtug. Draper and Chadwick, JME , Vol.25, No.2

Paul, D.B. 1998: The Politics of Heredity: Essays on Eugenics, Biomedicine, and the Nature-Nurture Debate. State University of New York Press.

Persson, I. 1999: Equality and selection for existence, JME, Vol.25, No.2 

Reindal,S.M. 2000: Disability, gene therapy and eugenics a challenge to John Harris, JME, Vol.26,No.2

Silvers, A. 1998: Formal Justice, in: A.Silvers et al, Disability, Difference, Discrimination: Perspectives on Justice in Bioethics and Public Policy, Rowman & Littlefield Publishers

Wikler, D. 1999: Can we learn from eugenics?, JME, Vol.25, No.2

市野川容孝 1999:「優生思想の系譜」、石川/長瀬 1999所収

石川准/長瀬修(編著) 1999:『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ』 明石書店

倉本智明/長瀬修(編著) 2000:『障害学を語る』エンパワメント研究所

佐藤孝道 1999:『出生前診断――いのちの品質管理への警鐘』有斐閣

立岩真也 1997:『私的所有論』勁草書房

立岩真也 1998:「一九七〇年」、『現代思想』vol.26-2

長瀬修1998:「障害の文化、障害のコミュニティ」、『現代思想』vol.26-2

松原洋子 2000:「優生学」、『現代思想』vol.28-3

森岡正博 2001:『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房

米本昌平他 2000:『優生学と人間社会――生命科学の世紀はどこへ向かうのか』講談社現代新書


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